Kawaiiは救済である。
こんなに2次元が好きになったのはいつからだろうか。高校時代に勉強に落ちこぼれて自分の目標を見失い、心が荒んでいたときからだった気がする。中学の頃は微塵も興味がなかったが、きっかけはおそらくこれだと思う。
出会い、願い、祈り
とあるゲームのシーンを見てボロボロ泣いてしまった記憶がある。悲しいシーンではなかったし、シリアスな設定でもなかった。でも、ヒロインの優しさや純粋さが伝わってきて胸の奥が強く締め付けられ 、涙が溢れた。 なぜだろう。幸せなシーンなのに胸がズキズキして、嗚咽のように呼吸が乱れた。
悲しいことに、そのゲームはサービスが終了してしまった。でも、それは自分にとってかけがえのない作品だった。 推しにはもう会えなくなってしまったが、今でも大好きだ。願わくばまたどこかで会えることを。
無粋でシニカルな語彙に押し込めるな
世の中にはあらゆる作品のことを「現実逃避」だとか「疑似恋愛」や「疑似成功体験」という無粋で斜に構えた表現、あるいは「記号」「消費」と「代償」いった無味乾燥でシニカルな語彙に押し込めようとしてくる人々がいる。
確かにそういう側面はある。だが、それはあまりにも物事を記号的に見すぎだし、自分の感情がそんな言葉で説明させられると思うと「お前に何がわかる」という怒りがこみ上げて来て、納得がいかない。
「止まない雨はない」じゃなくて今降ってるこの雨が耐えられないっつってんだよ。夢くらい見せてくれ。雨やどりくらい許してくれ。救われたいと願うことの何がダメなんだ。
救済と安寧の光
Kawaiiで満たされた日常アニメが好きだ。KawaiiからKawaiiへの射の集合を考えることで任意の尊い構造をいくらでも導出可能な百合のラノベやアニメが好きだ。実のところシリアスな世界観や切ないシーンのある作品もかなり好きだ。
振り返ると、自分の好きな作品は世界観がシリアスであるかどうかは大きな振れ幅があるが、キャラクターの関係性の構造に「純粋さ」「優しさ」「慈愛」「救済」があるものが刺さるように思う。ある種のカタルシスやユートピアのようなものだろうか?自分でもうまく説明できている自信がない。
人間というのは現実を常に直視していられるほど強い生き物だとは到底思えない。 夢を見たらきちんとこちらの世界に帰ってくればいい。戻ってきて、苦痛の中もう一歩踏み出せるならそれで十分じゃないか。
Kawaiiは救済である。夢から覚めたらまた頑張ろう。